保釈犬

 

 自分の外に言葉を出さなければ、言葉は零れ落ちてしまう。生きた証も旅の印も地面に溶けてなくなってしまう。言葉が生まれ、いきていた時間そのものを忘れてしまう。文章を全く書けなかった時期にわたしはそれを痛いほど思い知らされていた。そして同じ過ちをまた繰り返しそうになっていた。言葉を零れ落とさずに、未だ見ぬ誰かに差し出すつもりで地道に書き続けることを再びはじめる。

 

 身体も心もこの一週間近く調子を崩していた。目の前が真っ暗で身動きが取れなくなような個人的な問題を抱え始めてから、身体の調子も悪化していった。本当に身動きが全く取れない時間だった。少し動けたとしても階段の踊り場で蹲り、四つ足でしがみついたまま止まってしまうような時間だった。わたしは生きた心地のしない時間をずっと過ごしていた。それがそのまま表情にあられている。死んだような溶けだした石像のような顔をしたわたし。家族はわたしの生気のない顔に気づかない。友人はすぐ表情の変化に気づく。昔恋人だった人も気づく。その違いが何なのかはわからない。家族が鈍感で、知の縁や恋の縁のある人はわたしの表情の変化を敏感に察知するという単純な話ではないと思う。

 

今朝になって個人的な問題は一応解決に向かい、身体の調子もマシになり表情も重たい憑き物が取れたように少し晴れ晴れとしているような気がする。わたしが抱えている問題は個人的な問題であると同時に社会的な問題であるように今は思う。具体的に即解決とならずとも、家族や友人にその問題について打ち明けて話すことで、悩みが個人のものではなくなる気がして、それだけで救いになる。ひとりで抱え込むことは不健康で、視界も身体の動きを塞ぐ猛毒に成りうる。もうそんな風に毒を抱え込むのはやめることにした。言葉を考えを個人の器に留めず外に出すことこそが個人として生きることなのかもしれない。

 

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