残骸犬

俺は小説を書きたい。俺は小説になりたい。俺は小説を叶えたい。俺は小説と結ばれたい。俺は小説に泊まりたい。俺は小説のカプセルに泊まりたい。俺は小説のコスモスに泊まりたい。小説という名前がほしいわけじゃない。小説の戸籍がほしいわけじゃない。小説の遺産が欲しいわけでもない。賞がほしいわけでもない。小説を両手に感じたい。小説を装丁に隠したい。小説を本棚に忍ばせたい。小説を注ぐグラスを選びたい。小説を通じて忍者になりたい。小説に話が通じるやつだと思われたい。小説の気まぐれに付き合いたい。俺には子供がいない。俺は小説の卵を産みたい。小説をカゴの中であたためたい。小説家の卵じゃなく小説を産みたい。小説の赤い肌がみたい。小説の赤い花がみたい。小説の産声が聞きたい。小説の病院に付き添いたい。小説は赤と緑だ。小説はスイカ色だ。小説の親離れは早い。小説に振り付けはない。小説に好物はない。小説の仮説の注射を打つ。小説はとけていく。知らないうちにとけていく。コーヒーフロートにとけていく。モンシロ蝶にとけていく。夢にとけていく。小説は目よりも早い。小説は耳よりも深い。小説が叫んでいる。誰にも聞こえないうるささで叫んでいる。小説が泣いている、小説の涙でインクが滲んでいく。小説に溺れている。小説で犬掻きをしている。小説で泥酔いしている。小説が唇になる。小説がローリングストーンズになる。小説が掃除機になる。小説は全てを吸収する。小説に支配される。小説が秩序になる。小説が自由になる。小説が理由になる。小説が口にした言い訳にちゃんと洋服を着せる。人間である俺よりも先にオーダーメイドを着せる。小説に幼稚園と保育園のどちらに通っているか尋ねる。幼い小説の目で俺はもう一度この街を見る。羽田の街をみる。品川駅をみる。神田をあるく。高円寺で降りる。俺は強面の小説に挟まれて、レモネードを飲む。バーガーキングのトイレで踊る。隠れ家でスイングする。月の飴をなめる。机にケチャップをまいて小説を書く。ふりだしにもどる。小説ゲームのふりだしにもどる。小説を沸かす。給湯器でもやかんでもなく、人間で沸かす。動物園に水族館に小説を書けるやつはいるか?小説を持ち歩くな。それは小説への一番の遠回りになる。小説に方角はない。小説に上も下もない。小説に約束はない。小説には酸素がある時とない時がある。俺は小説を練る。身体に悪そうな色の小説かまぼこを練る。それを枕にして俺は寝る。そいつは蛇になって俺を噛む。俺はこの身体で小説の毒を知る。俺は小説のために不老不死を手放す。俺は小説と心中しない。俺は小説と別れる。俺は小説を卒業する。小説の世代が変わる。小説が争う。小説が散る。俺が小説に溶ける。

たった、一遍の詩くらいもまだ進んでいない。過去をこの身体で書きなおす。この身体でしか過去は再生できない。出てくるはずのないものが出てくるまでやらないと。麻痺するぐらい、泥に塗れる。泥を育てる。泥に血を流す。てんぷらを食べるよりもはやく、俺がてんぷらとして、さきに揚がる。イヤフォンのコードが断線するのよりも先に、レコードを脳に移植する。
受け止めたり、見つけたりするためには、余白が必要で、それをつくるために書いていたりもします。やわらかい筋肉をつくらないと、いけない場所がある気がします。動きながら考える。動いてなお、とまる。。麻痺するぐらい、泥に塗れる。やれ、お金がない、やれ、結婚できない、欲しいものは何?やらざるを得ない、やらないといけないことの中に、その時代みたいなものも映っているはず。鏡にはなれないけれど、レンズにはなれる。ハードディスクにはなれないけどフイルムにはなれる。引きずり込まれるような小説は1ページ読めばわかるくらい強力だよ。「もうダメ」、書き終わってから言えよ。絶望を鍛えて、ひっくり返せ。つくりなおす、書きなおす、違いを見つけにいく。今、かけらぐらいの対話すらないなら、それがまたあらわれた時に何十倍も濃い時間が流れるように準備を重ねる。人間にも熟成がある。困難にはおおらかに。書く身体をつくれ、それが肉体改造だ。手塚治虫さんがこどものころに受けた、作文教育のように、ひたすら量をこなせ。つまらなさに耐えろ。手塚治虫さんの10億光年うしろを歩いていたとしても、それでいい。とにかく歩け。時計を見ずに歩け。極刑から脱出する。布一枚で獣をまもる。意気揚々の顔はどこへ向かう。


僕は小説を書きました。400字詰め原稿用紙換算で370枚、170000 字の文章を。その文章を何人かに読んでもらいました。長い文章のほんの一部ではありますが。誰ひとりとして、その文章を「小説」だと認める人はいませんでした。「小説」であることの承認、「小説」であることを認める許可書、「小説」であるというお墨付き、いずれも頂いたことはありません。「会話文と感情の描写が足りない」、「短く削れば、詩になりそう」、「写真を添えてみたら?」、「何とか、面白く読むことはできました」などと、小説を読んだとは思えない感想ばかり。ぼく自身も、この紙の束を、USBメモリーの中の文章ファイルを小説だと断言できません。自信がないのです。破って捨ててしまいたくなるような日もあります。小説を書くことなんて、向いてないんじゃないかしら。森鴎外の『青年』とかカフカの『変身』とかドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』あたりを「小説」と言うんだとしたら、それとは随分違う代物のように思えます。目的が小説であり、手段が小説であることは間違いないのですが。昨日自動販売機で買った、ペットボトル入りの麦茶も、スーパーで買った冷凍うどんが「小説」でないことぐらいはわかります。何をどうすれば、何の成分を如何ほど含んでいれば、どんな人に帯を書かせれば、僕の文章は小説になれるのでしょうか。なんだか、ボブディランの『風に吹かれて』みたいな気分になってきました。いっそのこと、ぼく自身が小説になってしまったほうが手っ取り早い気もしてきます。僕は今日から人間をやめて「小説」になります。


 わたしは小説だ。小説のことはまだ知らない。小説のことはまだわからない。小説を読んで、小説を書いても、小説がわからなかった。だから、私は小説になった。僭越ながら小説になった。大胆にも小説になった。藁にもすがる思いで小説になった。誰よりもはやく小説になった。あれから、100年経ったが人間から小説になった者が他にいるのかは知らない。本屋で小説をペラペラと捲っても、小説がどこにいるかわからない。小説は群れる必要がないから、小説を私は骨の髄まで小説だ。小説の四十八手を知っている。小説の隠し味を知っている。酸っぱい小説から甘い小説までしゃぶり尽くしてきた、小説の中の小説だ。自惚れているわけじゃない、あの夜をやり過ごすには私が小説になるしかなかった。人間の危機であり、小説の危機であった。私の他に名乗り出るものはいなかった。あきらめないのが小説だ。あきらめる小説などこの世にない。あの世にだってないだろう。悟りを放棄したのが小説だ。時間が養分のように溶けているのが小説だ。愚かさを恐れないのが小説だ。突然現れるのが小説だ。小説に秒殺はない。小説に特効薬はない。小説に勝利はない、小説に敗北もない、引き分けもない。小説に真空パックはない。小説に老いはない。小説に階級はない。小説に重力はない。小説に安住はない。小説に義理はない。小説はキリがない。

詰まっても既存の小説に逃げない。小説に逃走せず、小説から逃げる。小説をゴールにしない。小説に参加せず、小説と直接交渉する。小説と闘争しない。小説を竹刀におさめる。小説は挙動不審だ、大江健三郎スーツも、村上春樹スウェットも脱ぐ。ポールオースターソースをメンチカツにかける。ジョルジュバタイユトーストを焦がす。手塚治虫養成ギプスという矛盾すら恐れない。赤塚不二夫が残してくれた酒が染みるよ。この間引き出しの2段目から小説が出て来たんだ。、小説ごっこの中に小説を見つけるしかないな。

外になんて出れない。もう外になんて出れない。雨を絞ったスカート。外食はもういいや。枠なんてないから。ルポタージュは書けないから、俺はコーンポタージュを書くよ。クノールみたいなインスタントじゃダメなんだ。レシピなしでやるんだよ。遠慮はいらないよ。ちょっと生きちゃってごめんなさいって言うようにコーンポタージュを書くんだよ。俺はうそをついている。俺はまだ皮を被っている。きっと被っている。きっと。

夜食にカップ焼きそばを食べた。お湯を入れるためにビニールを剥がす時の、ビリッていう音。あれでカップ焼きそばを許せるのかもしれない。高カロリーを、気持ち程度のキャベツを、焼かれていないことを。湯切りの音じゃダメなんだ。湯切りは予定調和で、長すぎるから。今夜のビニールの音は良かった。さりげない一瞬の後の余韻が。